2024.10.14

前回の「卒業後のわたしたちー現在・過去・未来」シンポジウムへの参加報告がきっかけになって、桜蔭会120周年の間には、どんな“卒業生が母校のために果たす役割”ということがあったかなあ、と考えました。大学へのいろいろな寄附や在学生への奨学金の数々ももちろんそうでしたが、過去にはこんなこともありました、という一例として、桜蔭会が、母校の前身:女高師の大学昇格推進運動を、長きにわたって繰り広げたことや、戦後新制大学として出発したお茶の水女子大学への大学院設置に果たした役割について述べておきたいと思います。

 *データリソースは『桜蔭会100年史』および『桜蔭会会報』です。年度で示す必要もあることから、表記は元号で統一しました。

大正12年頃から、桜蔭会が中心となって女高師の大学昇格運動を何度も行いました。昭和4年には高等師範学校が東京文理科大学・広島文理科大学となり、またそれまででも高商や早稲田・慶応等も大学になっていましたが、女高師は取り残されました。第2次世界大戦後の「新制大学:お茶の水女子大学」としての出発を待たなければならなかったのです。そして、新制大学にはなったのですが、桜蔭会が望んでいた“旧制”としてではなく、従って大学院もなく、予算措置も不十分で、まもなく桜蔭会による大学院設置運動が始まることとなるのです。

「よい研究を盛んにするためにも、また、日本における女子の高等教育を促進し、女性研究者や女性教授を多く出すためにも、お茶の水女子大学に大学院を置くことが急がれねばなりません」と、桜蔭会会員であり母校教授であった阿武喜美子氏(昭和7年理科)が桜蔭会会報(復刊7号 昭和29年7月)で説き、桜蔭会が設置要望書を学長に提出し、大学院設置運動を開始した、ということがありました。

この大学院設置運動は、昭和38年にやっと家政学研究科が認可(会報復刊38号 昭和38年2月)されても、休むことなく、昭和39年理学研究科開設(会報復刊42号 昭和39年2月)、昭和41年人文科学研究科開設(会報復刊49号 昭和40年10月)まで続き、会はさらに昭和41年度総会で「体育音楽専攻に対して大学院設置する件」を可決し、昭和48年度舞踊教育学専攻の修士課程設置が実現した、という長きにわたった会の要望活動でした。もちろんその都度、会員から多額の募金が寄せられたことは、会報に、その金額・使途と共に詳しく記録してあります。使途の中には「オシロスコープ」とか「ルームクーラー」や「タイプライター」など(理学研究科)の品目も見え、しっかり記録されています。

これでひと段落かと思いきや、昭和49年度総会では会員のなかから、母校に博士課程を望む発言がありました。そして、母校創立100周年(昭和50年)の年に「人間文化研究科」設置が認められたのです。他大学の大学院に進学しなくても、専門領域によっては博士号が母校で取得できるようになったのです。

そして、新学部設置に関しても、男女雇用均等法翌年の昭和61年7月27日の桜蔭会総会で、法学部経済学部の創設を母校に要望した、ということが桜蔭会史には記録されています。社会に出た先輩たちの危機意識が伺えます。残念ながらこれは実現されませんでしたが。新設共創工学部に関してもまた、地下を流れる深い潜流のような“科学技術”“工学”への志向性が(以前お話しした「桜蔭女子工学院」のように)、卒業生:桜蔭会の中に存在しているように感じられてなりません。

卒業生の果たす役割、今後もまだまだありそうです。たとえば、目下急務の国立大学学費値上げ問題に母校はどう対処するのでしょうか?女子大学の必要性についても様々な議論がある中で、我々会員はどう母校や母校の学生さんたちを支援し続けられるでしょうか?会員の皆さまはどんなご意見をお持ちですか?

桜蔭会 会長 髙﨑みどり