2022.6.19

――茗渓会(現:筑波大同窓会)からの分離独立の顛末   


先頃、茗渓会から、創基150周年記念式典への招待状が、桜蔭会に届きました。茗渓会というのは、一般社団法人で、筑波大学およびその前身である東京教育大学、東京高等師範学校、東京師範学校等の同窓会です。

招待状に先立つメールには

桜蔭会様と茗渓会は、高等師範学校が分かれたときにできた「兄弟同窓会」と聞いております。

とありました。「兄弟同窓会」?――「兄弟」という語にややひっかかりましたが、まあ仕方ないとして(“きょうだい”と平仮名に脳内変換する)、こっちが“弟”という認識なのは、桜蔭会の方が今度120周年を迎えるということでうんと若いからなのか、と納得しました。しかし、「高等師範学校が分かれたときにできた」というのはどうなのか?自然にできたのか?

そのあたりについては、前回のホームカミングデイ会長挨拶の内容ご報告でも簡単にふれています。つまり「高等師範学校が分かれ」て「女子部」が分離され「女子高等師範学校」となった1890年(明治23年)以降も、しばらくは卒業生は茗渓会に入っていたのです。まだ桜蔭会というようなものはもちろん影も形もなかったので。

そして1902年(明治35年)、茗渓会男子委員の方から「男女会員の利害は一致しないので、この際分離するのが双方の利益ではないのか」という趣旨の発言があって、いろいろと検討され、翌年の総会で、分離に賛同する女子は退会し直ちに前もって準備してあった「桜蔭会」に入会。ここに「桜蔭会」が事実上誕生し、1904年(明治37年)発会式を行うことになったのでした。

きっかけになった提案は茗渓会の方から出されたものの、この「いろいろと検討され」においてはむしろ女子会員が積極的に動いたようです。その動機として男子会員の中に「女子は足手纏いである」と言ったものがあって女子会員が憤慨した、などということもあったようです。(以上『桜蔭会百年史』より。最近の愛読書です。面白いんです!)

……1枚の招待状を眺め廻しつつ、この「兄弟同窓会」という捉え方をどうしたものか、桜蔭会分離独立の顛末をきちんと理解して頂くべきなのか、お祝いの席で言うのもどうかな~。

私事ですが、昭和44年入学の私は、“お山の上”の“学館”に教育大の学生さんたちが大勢いらしたのを覚えており、“筑波移転ハンタ~イ”デモにも参加しました。そんなことを思い出すと、茗渓会の150周年を、“いろいろあったね”と素直に言祝ぎたい気持ちになってきます。

桜蔭会 会長 髙﨑みどり